イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

現代における「できないこと」と技術革新

ふと、ソニーのウォークマンあたりの開発に携わった方のインタビュー記事が飛び込んできたので読んでみた。大体1980年代の頃の話なのだけれど、「できそうもない」が「できる」になること、それ自体が輝いていた時代だよな、と思う。僕が高校生の頃、国語の先生が「ウォークマンができた時はびっくりした。歩きながら音楽を聴けるやなんて。まるで自分が映画の主人公になったかのようやった」という話をしていたことを思い出す。世界が変わった、と。 僕はゲーマーだから、そういった体験をゲームでしてきている。ドット絵ピコピコで遊んでいた昔に比べたら、映画体験のようなゲームが当たり前のように出てくる現代への感動は色褪せない。コントローラ1つとってもそうだよ。振動すごーい、って今でも思うもの。 こういう技術革新の感動は「できないこと」があったからこそ生まれるよな。現在、技術革新の中心は生成AIだけれど、AIの感動は「作れなかったモノが作れる」という部分。映像なんて素人には作れなかったのに、今は文字を入れれば高品質っぽい映像が作れる。文章も音楽もそう。 一方で、そのAIが作るコンテンツそれ自体は今まであったもので、新しい体験じゃない。だから作り手と使い手の熱量の差がすごいわけだ。ジブリ映画っぽい映像を楽しみたいならジブリ映画を観てりゃいいんだから。加えてAIよりも先にコンテンツ飽和時代が来ちゃってるから、「大量のコンテンツが楽しめること」それ自体にも驚きはない。むしろ「もう食べられないヨ」みたいな飽食感覚になるかも。 そんな時代の「できないこと」ってのは実のところ「自然あふれた草原のど真ん中で時間を忘れて寝っ転がる」みたいなこととかじゃないかな、と思う。旅行パックの1つではなくてね。AIそのものじゃなく、AIのおかげでそういう生活を手にいれる、みたいな副次的なところに驚きが生まれるのかもだね。
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