イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

トラウマを理解はできないとしても

きっといろんな人も大なり小なり、何かしらのトラウマを抱えている。僕で言えば幼少期には生きることを諦めたかのような家出をしているし、まあ成人してからも奴隷労働に身をやつして、それ以来「電話」「時計」「通知」といったものを見られない年月が続いた。今だって電話は好きじゃない。 ただ、それを誰かに語ることはほとんどない。語る相手も気を許したかどうかだけではなく、たまたま話したくなったから話した、みたいな機運もある。多くの場合、誰かの苦痛、苦悩など知る由もない。「なんだあいつ」などと思っていた相手だって、愛しいお子さんを亡くしたことがあるのかもしれない。 ただ、そういうことは残念ながら考えたって仕方がない。根掘り葉掘りと聞くわけにもいくまいし、真実を確かめることなんてできない。だから考えたって仕方がない。 一方で無視していいわけでもないし、どうしようもないってわけでもない。考えたって仕方がないだけなので、行動することには意味がある。考えることが悩むことに繋がりそれによって行動停止につながることが不毛なだけだ。 そしてこれは逆もそうだ。苦しんでいる時に誰かから追い討ちじみた行動を受けたとしても、仕方がないのだ。被害者面ばかりしてはいけないよな。一人嘆くくらいでとどめた上で「そうはいっても」と、相手目線で開き直る。 わかりあうだなんて現象は幻想だけれど、それでもこういった動きには何かしら意味がある。幻想は幻想の価値がある。
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