イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

失われたけれど復活するもの

現代を生きていると、人間社会というのはこう成るべくして成ったな、という感覚がある。一方で、きっと今、こう成っているのはかなりの偶然の噛み合わせの結果なのだろうと思う。 たとえば共産主義が特権階級と腐敗によって倒れたのは必然のように思えるけれど、もし腐敗に対する自浄が働けば、世界は共産主義に溢れていたのかもしれない。あるいは今後AIがビッグブラザーとなれた場合、共産主義じみた何かに転じるかもしれない。 お金って仕組みは変わらなそうだがそれもどうだろう。お金とは引換券だ。元々は物々交換だったが持ち運ぶのが面倒なので「引換券」でやりとりをしはじめた。そうすると引換券自体が価値を持ちはじめていき、それが通貨となった。日本では米の引換券だったし、古代ローマでは家畜、あるいは土地や兵士の引換券だ。そうやって価値の引き換え=「商い」をするならば、お金という概念は当然の帰結のように思える。 でも、他の道はあったのかもしれない。お金や労働というものも、今僕らが当たり前のようにやっているから、世界にとって当たり前のルールのように思うけれど、天動説みたいなものかもしれない。そもそも人間が野生の獣だったころは「お金」なんてなかったわけだし。代わりに闘争と分捕りを何十万年もしていたわけだ。 まあこんなことは多くの人たちが考えてきたことだろうけれどね。それでも自分が考えるのはいろんな発見がある。思想家や哲学というものはここ50年〜100年ほどでずいぶんと失われたが、多分次の50年くらいで復活するよ。だって多分、「AIじゃない方」に寄るもの。波は寄せては返すものだ。
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