旅と航路と船
東京に行く度に色々と考えさせられることがある。それだけ東京という街のエネルギーはすさまじい。あれだけの人間がごった返していて、それらがこの摩天楼に血液のように流れている。毎回、夜に飲みに行くせいもあるだろうけれど、飲み屋ごとに違うエネルギーが跋扈している。
そして長野に帰ると、そんな世界はまるで存在しないような、別世界が広がる。エネルギーがないわけではなくって、人間じゃないエネルギーがごった返している。鳥や虫たち、あるいは青々と茂る森や絶えず流れる大きな河。
全くの別世界だから、そこを行き来すると温度差で思考が加速する。単なる「都会と田舎」という話でもない。街の活気という点で見れば、僕が住む場所も活気はある。車は絶えず走るし、移住ブームで子どもも多い。東京にある「異様さ」はないが、ド田舎なわけでもない。虫取り少年はほとんど見ない。
そういうギャップを感じると「世界は様々なんだな」と気づける。ずっと世間を賑わせているAIも、あるいは僕の軽トラにできた蜂の巣も、大したことではない。僕が先月入院したあの部屋には、今日も誰かがいるんだろう。彼らにとってはあの部屋が世界だ。
自分がどの世界に住むか。そしてどの世界を旅するか。その旅はどんな旅か。そんなことを考える。旅ってのは結局、幕間であり膜だ。世界そのものよりも航路。つまりは身体だ。この身体が僕らの船なのだから。