イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

真偽は条件と観測で変わる

これはあくまで僕の考えなんだけれど、情報それ自体に真偽というものはなくて、あるのは前提条件、観測方法だと思っている。 たとえば天動説は偽情報だったのか、というとそうではない。僕らが地動説の世界で生きているから偽情報に見えるだけだ。天動説という立ち位置に立って、たとえば座標軸の基準を地球に置けば、天動説は成り立つ。僕らはそうしない条件と観測方法を選んだだけだ。 他方、「Aちゃんは君のこと好きらしいよ」というのをBくんから聞いたとして、それが全くの出鱈目だったとしよう。これは偽情報だと言いたくなるかもしれないが、それはこの発言だけを切り取った観測方法を選んだ場合だ。もう少し広げると、「Bくんが出鱈目を言った」という情報が関連する。そこまで観測を広げると、この情報は偽ではなくなる。屁理屈のようだが、こういうことだ。 つまり、ある情報を見て、その真偽を取り沙汰するのは大して実用性がない。この情報を真たらしめる条件は何か、というところまで踏み込めば見えてくるものもある。その条件が思ったよりもあやふやなこともあり、そうなれば「この情報は検討しても仕方がない」ということもある。 僕が他人の気持ちや思考みたいなことを考えないのはこういうところだ。その情報には大して実用性がない。それよりも「一緒にいて笑った」とかのほうがずっと実用性がある情報だ。
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