仕組みではなく場所
僕は最近、よくチームのことを考える。これは別にチームワークがどうのではなく、僕以外の人間がうまく機能しあうことが、僕自身を助けるからだ。僕にとってチームとは仕事のツールの一つに過ぎない。
油断すると、「個人の技能」の話になってしまうが、そうではいけないな、と毎度、自戒する。個人の能力というのはどうしてもあるが、そこを議論したところで解決策が身を結ぶのは1年後、とかになってしまう。
先日書いたことと同じだが、結局は土壌であり場なのだ。仕組みとも呼べるけど、厳密には仕組みではなくって場。あそび場だ。ジャングルジムがあれば誰だってそれで遊ぶだろう。砂場があれば砂をもてあそぶ。砂場のないところで砂だけ持ってきて「砂であそんでね」と言っても遊ぶわけがないのだ。
仕組み、っていうのもデザインが過ぎる。ベルトコンベアだとか目的が明確にあってそのための何かを作るならばそれは仕組みだが、もっと化学反応だとか着想だとかを生むならば、仕組みじゃない。余剰がいる。余剰のことも「あそび」と言うね。そしてあそびには場所なのだ。
余談だが、「あそぶ」という漢字には遊と游があるが、僕は後者のほうが好きだ。歩くよりも泳ぐほうが僕に合うからだろうな。万物は流れであり、生きるということは漂うということなのだ。游びだってそうだ。