イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

知識を体験するか評論するか

僕は文章を読むこと、本を読むことが好きだ。一方で、僕の友人で本を読む人というのはそこまで多くない。なんなら「本なんて信頼できない」という人もいる。僕はそういう個々人の「本」に対する姿勢はあまり気にならない。 僕が気にするのは読書云々という部分より、「知」に対する姿勢のほうだ。知識欲というわけでもない。知に対して身体性を伴えるかどうかだ。本を読まない人でも身体的な体験から知を構築している方はいっぱいいるし、逆に本を読んでいても身体性が伴っていない方もいる。 僕は本を読む時はおおよそ、何かしらのイメージが脳で蠢いている。本を媒介にして「体験」をしているのだ。ラジオとかでもそうだ。大抵は絵が浮かぶ。書かれている内容そのものが描写されることもあれば、その筆者が語っている様子が浮かぶこともある。あるいは全く違うモノが描かれることもある。僕はこういう空想遊びが長けているので、僕は読書と相性がいいのだろう。 まあそれはそれとして、そういう身体的体験によって知を味わえる人であれば、それが読書であれ何であれ、興味深い知に溢れている。学があるなしでもない。ちょいと外れた話だが、女性のお化粧なんて知の塊だ。 逆にまあ、本を読んでいても、あるいは何かしらを体験していても、どうにもつまらない方もいる。つまりは知識を評論することに目が向いている。そういう方の話というのは僕はあまりそそられない。Podcastなどを聴いていても楽しいのは身体性のある知識だ。
前へ
一覧
後へ