イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

捨ててきたものの中に

ふと、渋沢栄一さんの「論語と算盤」について中田敦彦さんが喋っている動画が目に入ったのでラジオ代わりに聞いてみた。中田のあっちゃんは本当にこういう喋りが上手い。アジテーターの才がある、と言っていい。それを扇動として使うことには一貫して興味を持たずに「喋るのって楽しい」っていうベースのままいるのはすごいなと思う。 彼の動画は伝道として聴くにはとても良い。彼が語る「論語と算盤」には解釈が混じっていて、すべてを事実だと思うと勝手に扇動されてしまうが、それを意識すれば「事実を元にしたストーリー」くらいに楽しみつつ、題材への興味を持てる。 さても話題を「論語と算盤」に移すが、おおよそ現代人が直面しているような問題は昔の方も直面していて、そして示唆に富む解法を持っているものだと思う。「視観察」だとかは論語に出ていて孔子の時代からあるものだ。それが一度は消えて、誰かが発掘して、それが近代まで受け継がれている。 まあとはいえ、孔子やら家康やら渋沢さんやらが説いているということは、誰もが当たり前のようにできることではない、ということでもあるのだけれど。とはいえ、「みんなができていないこと」は新しい課題には繋がらないもの、という意識はあったほうがいい。 ふと、ある西欧ファンタジー漫画で魔女や妖精たちの嘆きを連想する。そういう古い魔女たちが近代的な人間文化と宗教よって迫害されてしまったことを嘆いて「あなたたちが捨てようとしているものの中にこそ、今あなたたちが求めているものがあるかもしれないのに」とつぶやくシーンがあった。 あられもない連想だが、まあそういうことは行われてきているし、今も行われつつあるんだろうな。人は現在を岐路だと思い込むもの。
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