イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

あやふや

そういえば先日、ある方が「自分の書く文章は実は全部AIで、ツイートも全部AIです。それでもこんなに閲覧数があり、すでにX円を稼いでいるのです」みたいな発表をしていた。それを餌に「そんなAIの使い方はこちら」とさらなる釣果を上げようとしていた。 そこに対して、別の方が「知りたくなかった。もう読む気が起きない」とつぶやいていたのだが、そこへのさらなる返答として「それは内容を見て判断していないということで、本質的な部分を見ていないのではないか」という批判をしていた。 これはなるほど面白いやりとりだなと見ていた。僕個人としては読む気が起きなくなる気持ちがすごいわかったし、その理由は「人が書く」ということは文章における本質の一部だと思っているからだ。誰が製作しているか、というのはコンテンツの本質を大きく担っているのだ。 ところが、まあそこを本質だと捉えていない方もいるわけで、要するに「本質」って単語もずいぶんとあやふやで信の置けない言葉だということを思い出させてくれる。言葉とは全てそうだが、「本質」ってのは、「話者が本質だと思っているナニカ」以上の意味はないのだ。 実際、「事実」だとか「歴史」だとか、そういうことも随分とあやふやなものだ。すべては主観と体験であり、それらはどちらもあやふやなのだから。「我思う故に我あり」というやつだ。我でさえ、「在り」ということくらいしか言えない。少し時間軸をずらせば、それは同じ我じゃなくなる。 だからこそ、仮説を立てて、それを試して、を繰り返すしかない。落ちるリンゴだって逆立ちして見れば登っている。
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