イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

虚構に生きる

ここ最近、僕はずっとお腹の調子が悪い。調子の波があって、悪い時はそれはもう、座ってられないくらいに悪い。ところがどっこい、僕は昔から対面するだけでは調子の悪さは見えづらいようだ。ひどい体調の時も「全く気づかなかった」と言われることが昔からあった。 これは僕が特殊なのではなく、まあ人間なんて存外他者のことなど見えていないのだ。「ほら、やっぱり」なんていう時はおおよそバイアスがかかっている。最近体調良いんじゃないか、と聞いてしまうと、そりゃあ過去30日のどこかに体調の良い日はあるものだが、「まあ、たまには」なんて返した日には、聞いた側は「やっぱり」などと思うのだ。 他者だけじゃない。自分のことさえもわからないものだ。人の思考は言葉に囚われているが、その実、言葉というものは虚構であり、思考でさえも虚構だ。僕はチョコレートを食べたくなるが、その時の思考は「甘いものが食べたい」なんてものではなく「うっひょー、うけけ」のほうが近いだろう。 では虚構である思考や言葉に意味がないかと言えばそんなことはない。フィクション大国、ニッポンで生きてきた僕らは虚構の力には親しみがあるだろう。それこそハラリは「虚構を認識する力」がホモサピエンス最大の特殊能力である、だなんて言っていた気がする。僕らは虚構に生きる生き物なのだ。 そして虚構とは主観的なものだ。つまり、主観で見れば虚構は真実になる。相手から見て僕の体調が良さそうに見えれば、相手の生きる世界では僕は「体調の良い人間」なのだ。逆もそう。「やな人だなあ」と思ったソイツは実のところ、家族が危篤なだけなのかもしれないが、一方で僕の主観では「やな人」なのだ。 虚構は人の数だけ存在する。それを世界観と呼ぶにしろ、真実と呼ぶにしろ。
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