我執の摩耗とゴースト化
おおよそ大学生の頃から、僕は「自意識」というものをなるだけ遠ざけよう、遠ざけようと意識していた。当時は「我執」という単語を使っていたが、これをなくしたいなと強く思っていた。
それでも20代まではそれが全くできておらず、「自意識を遠ざけようとする自意識」が強かったものだ。今でも多少マシかもしれないな、と思う程度だ。自分もまだまだだなと思うことも多いが、それでもある程度は見れるようになったんじゃないか、と思う。
ずっと「自分」という感覚が希薄だった僕が、それでも「自意識」があった理由は、まず「自分たち」という意識の共同体の全てが我執を持っていたこと。加えて現代の日本社会がアイデンティティ・個人というものを前提としていること。この2つかなと思う。
じゃあいつからその自意識が薄れていったのかというと、それは緩やかに染み渡るように変わっていったのだろう。劇的な何かがあったわけじゃない。強いていえば「人間のはじまりを生きてみる」という書籍の中に分裂した意識が登場していて、それを読みながら「ああ、この感覚は僕にもあるぞ」と思ったことか。でも、それだけじゃない。緩やかに流れていたところに落ちた波紋のようなものだ。
松岡正剛さんが自身を「正体不明のゴースト」と称しているのを読んだ時にも膝を打ったが、これは「その表現があったか!」であって、すでに僕自身も「正体不明」になっていたのだろう。