怨嗟の火種
腸を悪くした時、友人から「ストレス溜まっているのかい」などと声をかけていただいた。僕の主観ではそんな心当たりはなかった。東京から離れて長野に住んで、毎日自然を浴び、気が向くままに生きているつもりだからだ。長時間労働にも従属せず、休みたい時に休んでいるつもりだ。
ただ、一方で、僕はそもそも生きているだけでストレスが溜まりやすい人間なのかもしれない。それは社会の枠組みと自分との如何ともし難いすれ違いだ。「なぜこうなっている」「なぜこう進むんだ」「こうしたほうがいいだろう」そういった思いは毎日抱えている。僕にとってそれは社会活動上の必然なのだが、それをストレスと呼ぶならば、世の中はストレスだらけだ。
たとえば僕は、なぜ人々が「対話による課題解決や相互理解」といったものを重視するのかが理解できない。対話なんて各々が違う辞書を持ち寄って、会話が成立した"ふう"を装い、その空気感に満足するものだ。課題解決や相互理解のメインウェポンにはならない欠陥品だ。それなのに皆が「話し合うべきだ」などという。話し合いは「試行錯誤」や「共同作業」といった手法の中に出てくるサブウェポンにすぎない。
その証拠にほら、どんなに話し合っても理解しあえてこなかっただろう。それなのに「会話が足りない」だとか、挙句「実際に会って会話するのが大事」だとか言い出すのは理解に苦しむ。会話とは揺蕩いながら同じ時間を過ごすことなのだ。
と、まあ一事が万事この調子だから、それはストレスが溜まることだろう。こういう側面で言えば僕の根っこには怒りや不条理に対する怨嗟の火種が常にあるのだから。僕がフィクションに傾倒するのも、フィクションの中でならば僕の思いと合わさる思想と出合えるからかもしれない。