イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

チグハグでもともと

僕は自分の言っていることさえも当てにならないものだと思っている。行動にはそれなりに筋金があるつもりではいるものの、言葉はその時その時を切り抜いてしまうと全くもってチグハグであろう。 さてもここが人と人とわかりあうことの難しさだ。四六時中一緒にいるならいざ知らず、僕らが他者と関わる時には、おおよそ「切り抜き」でしか見られないからだ。そしてその上で思考の中もわからなくて、「言葉」「表情」「身振り」といった出力部分しかわからない。 会社では業突張りで通っている人間が、友人らとの間では優しい人間と評されたりといった具合なのだ。そのうちの何分の一かしか見たないような部分で出てくる出力を見ているだけだ。僕らが誰かに一貫したアイデンティティを感じるというのはおおよそ、その切り抜きを平坦にして妄想で補っているだけだ。 一方で、そういった出力からくる情報をアイデンティティと同一視せず、ある環境下で特定の入力をすれば返ってくる出力として受け止めれば、その情報には意味がある。会社で業突張りな人間というのは、会社という条件下においては「業突張り」として対応することは有用なのだ。 僕にとって他者の分析とはそのくらいのものだ。友人として接する時に、仮説として分析を投げかけるような会話は楽しいのだけれど、それによって理解し合うみたいなことは期待していない。「あーオハナシおもしろかったなあ」しかない。
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