大群と個人
先日、近所の大きな木に大量の、それはもう千匹はいくんじゃないかという量の小鳥が続々と集まっていく様を眺めていた。夕暮れ時になると彼らは寝床でも探しているのか、いくつもの大群が大空を舞う。そして時に合流し、時に散らばり、時に電線に集まったりしていたのだが、それが一本の木に続々と吸い込まれていった。
すさまじい自然のダイナミズムであり、生命の熱量と静寂を同時に感じた。すさまじい鳴き声をあげながらも、どこか整っているような。10分ばかりか、その様を眺めていたように思う。彼らはお互いを認識しているのかなとか、自分の番(つがい)の相方や親子を認識しているのかなとか、そんなことを考えながら。
いずれにせよ、僕にとってその風景がどうにも大群として自然なありように思えた。僕らはきっと意味を持ち過ぎている。大群のくせに個人を重視するから剣呑なことになる。大群が集まっているのに「この人の隣がいい」などと言い出す。ざっくばらんに「雄」「雌」「大人」「子供」くらいの捉え方が、大群にはふさわしいように思う。
でなければ、そもそも大群を為さなくてもよい。そもヒトの集団はおおよそ猿山くらいが席の山で、個人を見るなら小集団であるくらいがいい。それを大群と個人を行ったり来たりするからややこしくなる。
たとえばカフェでコーヒーを飲んでいても、身内の数人以外はすべて「他のヒト」くらいの認識だろう。おおよそ群れというのは、他者とはそのくらいでいいんじゃなかろうかね。