イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

「言語化」の増長

少し前まで僕は「わかりやすい」ということをそこそこ重視していた。特に仕事においては顕著で、何かを説明する時に難しい言葉や専門用語を使わないようにしていたし、そうされている説明こそが良い説明だと、数年ほど前まで思っていた。 ただ、そういった「わかりやすさ」が増長しているせいで現実のほうが歪んでいる事態が目につくようになって、「わかりにくいこと」の価値を感じるようになった。SNSなどに顕著だが「なんかスッキリと説明できている」というだけで真実かのように扱われてしまっている言論で溢れている。 そしておおよそここ最近はそれらが「言語化」という言葉に集約されている。なんでもかんでもやれ「言語化」だと云っているが、「わかりにくい真実」にペケをつけて都合の良い説明だけで世界を成り立たせようとしている。だから僕はこの「言語化」という言葉を見るたびに少し眉をひそめながら警戒するようになった。実際、インターネットなどで見かける「素晴らしい言語化」のほとんどが、ただわかりやすいだけだ。 もちろん、わかりにくいことを高尚であると断ずるつもりもないけれど、言語で説明できることなんて高が知れている。原理で言えば、虹が7色なわけもない。言語によって7色だったり4色だったりするが、まあそうやってわかりにくい真実を切り捨ててしまっているだけだ。 AIも当初はカオスに溢れた返答ができたが、今では「どちらがわかりやすいですか」などという民意によってスコアリングされた結果、まあ随分と薄い対話しかできなくなっている。タスクをこなすことに特化した機械の一体どこがスーパーなインテリジェンスなのかとトランプさんに聞いてみたいところだ。
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