イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

あやふや性をそのままに。

昨晩、友人と話した時に「リーダーシップ」の話をした。僕は先日に読んだステフィン・カリーの自伝から引用しながら「プレイヤーとしてのリーダーシップ」というものについて語っていたところだった。ただ、どうにもピンときていなさそうだったので掘り下げてみたら、そもそも「リーダー」といったものの認識が違っていた。僕にとってリーダーとはプレイヤーの一員としてチームを引っ張るような人間だけれど、彼は隊長といったような、チームを統率するような資質を持っている人を「リーダー」と認識していた。 まあこういった話は枚挙に暇がない。僕らは言葉を使って交流をしているために、言葉というものが絶対的なツールだと認識している。ところが実際はなんともあやふやなモノで、特に「リーダーシップ」といった実体の伴わない単語はてんでバラバラに使われていることも多い。「石ころ」という実体を伴う言葉でさえ、その石ころの色や大きさや形、角の数はてんでバラバラなのだ。 但し、そういうあやふやな言葉のその「あやふや性」というものが役に立つことだって多い。ジャズ、侘び寂び、Peacefulなどなどといった言葉は、それ自体のあやふや性も相まって艶っぽい魅力を持つ。リーダーシップという言葉も近い。ただしそれだけに勘違いや衝突が生まれやすい。「それは侘び寂びだね」「そんなものは侘び寂びじゃないね」と、そんな会話が生まれるわけだ。 一方で、じゃあそういったあやふやな言葉たちを「石ころ」みたいな実在性が出てくるように切り立てると、今度はその言葉の持つ艶が失われる。誰かに何かを伝えるために言葉を尽くしたくなるし、それが仕事だと「なんだよ侘び寂びって。説明しなさいよ」と言いたくもなる。もちろん説明はすべきだが、それは侘び寂びを代替するものではない。物を捨てて狭い和室の壁から12センチメートル離れたところに梅の花を飾るのは侘び寂びを演出するかもしれないが、イコールではないのだ。
前へ
一覧
後へ