イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

神秘と混沌

先日、ステフィン・カリーというNBA選手の書いた書籍を読んでいた。示唆のある言葉が色々あって手帳にメモしながら読んだのだけれど、一説、興味深い点があった。それは「信仰心」という部分だ。彼は困難があった時、あるいはそれに報われた時に神を感じているようだ。試合前などに聖書を読む習慣がある、とも書かれていた。 僕は今生きているこの世界に対して「神秘性」みたいなものは感じていない。自然に近い場所に住んでいて、地球や自然に対する畏怖は感じているし、生命のダイナミズム、あるいはそれらとの一体感、流れを感じてはいるが、一方でそこに神秘性はなく、信仰心もない。ただ、そう在るというだけだ。 一方で、ゲームをやっていて出合う神秘性は魅力に感じている。フィクションの世界では、例えば自然を体現する水龍様であったり星の意志だったりがある。そういったものを感じながら生きていたり、あるいはそこを研究するような生き方があったりすると、いいものだな、と思う。 小さい頃、世界が衛生写真とかで撮り尽くされている、という事実をしてがっかりしたことがある。この地球には未知の土地はないのか、と。まあ地中とかはわからないし、マグマ層の中に火龍バハムートが生きてます、とかあるのかもしれないけれど、おおよそ現代における未知とは「ケイオス」であって「未知の神秘」ではない。それを知って幼い僕はがっかりした。 とはいえ僕はケイオスも好きだし、僕の信仰心はそちらに向いている気がしないこともないけれど。自然や生命とはケイオスだし、「流れ」もケイオスだと、雨上がりの川の激流を見て想う。
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