イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

家事・生活

最近病院に行ったりだとか、あるいは郵便局に行ったりだとかする用事がある。これらはやむを得ずにお仕事の時間の合間に行くのだが、まあ現代の世間一般で言えば、これは「業務外」となるので「お仕事をしていない」といった話となる。それはそれとしても、郵便局に行くとか病院に行くとかいう道中は、なかなかどうして「こっちのほうが本懐だよな」などと痛感する。 先日、糸井重里さんがコラムで「いわゆる勤務時間」という話題をあげていた。そこで「いわゆる勤務」のふりをして、まじめな顔してパソコンを眺めたり没になる前提の資料を作るよりも、近ごろチェスに興味を持ったとか、今日の弁当おいしいねとかいう話をしている時間のほうが大切で意味がある、といった話だ。「いわゆる勤務」のふりを「ほんとうに無駄なだけじゃなく邪魔」とまで言い切っていた。 糸井さんは「仕事のふりをしている時間はもったいない」と別の書籍か何かでも言っていたが、まあ本当にそう思う。そして、それに比して「作業ではないものの仕事にも強く活きる生活」といった部分がある。それは連帯感であったり思考の整理であったりまあそういったところだ。 松岡正剛さんの日誌のような文章を読んでいると、仕事始めとして「雪の降りしきる中に初詣」と書いていた。初詣だって仕事なのだ。だって仕事と生活は密接に紐付いていて、初詣で誓ったことが仕事に返るからだ。 まあすでに手垢がついた表現になるが、「いわゆる勤務」のふりなんてしていたら、AIに代替されちゃうしね。だからこそ、大まじめに「いやあーーお腹の調子が戻ってきてね」なんて会話をしたり、あるいは家事だとしても郵便局に行ったり病院に行ったり、っていうことを大まじめにすることが大事なんだ。
前へ
一覧
後へ