イオリンの手紙

瓶詰めの紙切れ

平等と通貨と

僕らは均等ではない。そこに平等を求めると必然的に「最小公倍数」となるので「我慢し合う」ということを求めることになる。世で叫ばれる平等の半分くらいは「僕らが我慢しているんだから君も我慢しろよ」というやっかみだ。 以前も書いたが、僕は協力して生きていくということは「譲り合うこと」ではなく「与え合うこと」だという考えを支持する。これは平等ではない。もちろん、0か1かではないのだけれど、ベースには「与え合う」というほうが健全だと思うのだ。 たとえば足が早い人と足が遅い人がいて、購買のパンを買うためには足が早くないと売り切れてしまう場合、もちろん「1人パン2個まで」とか「廊下を走らない」みたいなルールを決めることも選択肢にあるが、僕は「足が早い人が遅い人の分まで買ってきてくれること」のほうが健全だと思うわけだ。そしてその上で「買ってきてくれてありがとう、今度、勉強を教えるよ」みたいなのを代わりに与える。 僕は、こういうことに通貨が使われることで生まれる経済こそが経世済民としての経済だと思う。ところがここで、足が早い人が購買のパンを根こそぎ買ってしまい、「欲しければマージンを20%僕に払え」とか言い出したら、これは与え合うことにはならない。価値の捏造だ。 これは通貨の弊害でもある。これが「勉強を教える」という対価だった場合は成立しづらい独占だからだ。「みんなからより多く勉強を教えてもらう」という必要もないからね。でも、通貨という「あらゆる価値交換に使えるブツ」というモノがあることによって、そこで発生する「与え合うこと」以上の価値が捏造して通貨を稼ぐ意味ができてしまう。 別に通貨が悪いというつもりも全くないのだけれど、こういったことが「与え合う」ということの成立を難しくしているとは思う。そうなると「譲り合う」とか「縛り合う」とかのほうが弊害が少ない。「1人パン2個まで」というルールで縛ってしまえば、独占は起きないのだから。でもそうなると、「与え合う」ということからは遠のいてしまう。
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